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800年を経た今でも筆者の揺れ動く心情が手に取るように伝わる日本古典文学屈指の名文『方丈記』

方丈記 (光文社古典新訳文庫)

方丈記 (光文社古典新訳文庫)

  • 作者:長明, 鴨
  • 発売日: 2018/09/07
  • メディア: 文庫
 

 

清少納言の『枕草子』、兼好法師の『徒然草』と並んで、日本の三大随筆の一つに数えられる鴨長明の『方丈記』。

 

大火や竜巻、飢饉、疫病、地震などから逃れられない生の儚さ。世の中の無常観を表した冒頭の文章はあまりにも有名。

 

ゆく河のながれは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消え、かつむすびて、久しくとどまりたるためしなし。世の中にある人と栖と、またかくのごとし。

 

川の流れは絶えまなく、その水もはいつも入れ替わり、もとの水はとどまらない。よどみに浮かぶ泡は、消えたかと思うと生まれ、いつまでもそのまま、ということはない。世の中の人間も、その住まいも、それと同じだ。(蜂飼耳 訳)

 

 

なぜ、人は、いつ死ぬかも分からないのに、すぐに無くなってしまうもののために、あくせく働き、心労を重ねて苦労するのか。

 

 

人のいとなみ皆おろかなるに、さしもあやふき京中の家をつくるとて、たからをつひやし、心をなやます事は、すぐれてあぢきなくぞ侍る。 

 

人間のすることは、みんな愚かだ。こんな危ない都の中に家を建て、それに財産をつぎこみ、あれこれと心労を重ねて苦労するとは愚の骨頂、まったくつまらないことだと思う。(蜂飼耳 訳)

 

 

平安の貴族社会から鎌倉の武家社会への転換期に起きた度重なる天変地異。

 

 

そんな混迷極める世の中において、秩序が乱れていく様子を通して、人間の儚さ、虚しさ、浅ましさを目の当たりにする鴨長明

 

 

すべて世中のありにくゝ、わが身と栖との、はかなくあだなるさま、又かくのごとし。いはむや、所により身のほどにしたがひつゝ、心をなやます事は、あげて不可許。

 

おおよそ、世の中が生き難く、我が身と住居とが、はかなむなしいさまは、今また述べてきた通りである。いわんや、場所により、身分、身分にしたがって、心を悩ますことは、いちいち数えきれないことである。(浅見和彦 訳)

 

 

権力者は欲深くて心が満たされることがないし、一人でいると、誰からも相手にされない人だと軽んじられる。

金持ちになれば心配事は尽きないし、かといって、貧乏でいると悔しさや恨みの気持ちが起こる。

誰かに頼れば、その人の言いなりになってしまうし、誰かを養い育てると、自分の心がその人への愛情で振り回さてしまう。

世間の常識に従えば窮屈だし、従わなければ変人だと思われる。

 

 

ついに社会に適合することができなかった長明は50で出家し、仏道修行のために世間から遠ざかって閑居な生活に入ります。

 

が・・・・

 

 

もし、念仏もの憂く、読経まめならぬ時は、みづから休み、みづからおこたる。さまたぐる人もなく、また、恥ずべき人もなし。

 

もし、念仏をするのが面倒になり、読経に気持ちが向かないときは、思いのままに休み、なまける。それを禁じる人もいないし、誰かに対して恥ずかしいと思うこともない。(蜂飼耳 訳)

 

やっぱりこうなっちゃいますよね。

 

じゃあ好きなことしてノーストレスで悠々自適だったかというと、そうでもない。

 

 

俗界への未練を断ち切ることができず気になってしょうがないし、

都に行けば、世間体を気にし、落ちぶれたと思われることを恥じる長明。

 

 

すがたは聖にて、心は濁りにしめり。

姿格好だけは聖人だが、心は濁りに染まっている。(蜂飼耳 訳)

 

 

そして、鴨長明の最終的な家は小さくて簡単に解体できる移動可能な家……今でいうところの段ボールハウスであって、長明はホームレスに他ならないわけです。

 

 

なぜ鴨長明は『方丈記』を著したのでしょう?

 

 

鴨長明は、周りの人々を愚かだといって批判して、こんなくだらない世の中じゃやってらんねーーって出家したわけですが、

 

世間から離れた山林の中で一人で孤独に過ごしているうちに、自分は社会から逃げ出しただけの敗北者なんじゃないかと弱気に思うことが少なくなかったと思うんですよね。

 

僕から見ると、『方丈記』は、鴨長明が「自分は人生の負け犬ではない」と自分に言い聞かせるために書いたものにしか思えません。

 

 

 

いまから800年以上も前の人の揺れ動く感情、心の葛藤が手に取るように伝わってくるところに、『方丈記』が日本古典文学屈指の名文というわれる所以があると思うわけです。