未来に頼らず、現在を逃さず、過去と向き合うことの大切さを説く『人生の短さについて』
ルキウス・アンナエウス・セネカ。
古代ローマ帝国の政治家にして哲学者。
理性に従い禁欲的に生きることを推奨するストア派の教えが、セネカの思想と生き方のベースとなっている。
第三皇帝カリグラ帝の時代に財務官として活躍していたセネカだったが、
カリグラ帝が暗殺されクラウディウスが第四皇帝として帝位に就くと、その妃・メッサリナの画策によってコルシカ島に追放されてしまう。
罪状はカリグラ帝の妹・リウィッラとの姦通。
メッサリナとアグリッピナ&リウィッラ姉妹の間に権力をめぐる確執があったため、実際のところは分からないが、多忙から解放された8年間におよぶコルシカ島での追放生活の中で、セネカは哲学者としての思索を深めることになった。
本書の中で、セネカは人生の短さを嘆く人を批判します。
われわれは短い人生を授かったのではない。われわれが人生を短くしているのだ。われわれは、人生に不足などしていない。われわれが人生を浪費しているのだ。(P17)
そういう人たちは時間の使い方を間違っているだけで、時間を浪費して自分で人生を短くしているだけなんだよって。
では、人生を長くするためにはどうすればいいか?
多忙な生活から離れ、閑暇な生活を送ること。
これは決して一生懸命働くことを否定しているわけではないし、何もせずにボーっと怠惰な生活を送ることを推奨しているわけでもありません。
セネカがいう多忙とは、
貪欲にとりつかれて無益な仕事に懸命に汗を流したり、偉い人におもねって自分からすすんで奴隷のように奉仕して身をすり減らしたり、他人を危ない目にあわせようとして画策したり、他人の幸運につけ込んだり、自分が危ない目にあうのではないかと心配したり、自分の不運を嘆いたりすることで頭がいっぱいなこと
をいいます。
では、多忙にならないためにはどうすればいいのでしょうか?
未来に頼らず、現在を逃さず、過去と向き合う。
セネカは、大切なことは「過去」「現在」「未来」の時間の捉え方にあると言います。
まず、「未来」はつねに運命の支配下にあって人間の思い通りにならないものです。だから、端的に言うと、そんな不確かな未来のことを考えるのは時間のムダだと。
先見の明があると自惚れている人たちの意見くらい信用できないものがあろうか。彼らは、よりよく生きられるようにと多忙を極めている。生を築こうとして、生を使い果たしてしまう。彼らは遠い将来のことを考えて計画を立てる。ところが、先延ばしは人生の最大の損失なのだ。先延ばしは次から次に、日々を奪い去っていく。それは、未来を担保にして、今この時を奪い去るのだ。(P44)
生きる上で最大の障害は期待である。期待は明日にすがりつき、今日を滅ぼすからだ。あなたは、運命の手の中にあるものを計画し、自分の手の中にあるものを取り逃がしてしまう。(P44)
また、「現在」という時間はあまりにも短く、刻一刻と変化しているので、近視眼的に目先のことに振り回されるべきではない。
現在という時は、きわめて短い。(あまりにも短いので、現在は存在しないと思っている人もいるぐらいだ。)なぜなら、現在はつねに動いていて、すばやく流れていくからだ。それは、到着する前に消えてしまう。
(中略)多忙な人間の関心は、この現在という時にしか向かない。ところが、それはあまりにも短いので、つかみ取ることができないのである。そして、そのような現在さえ、たくさんの雑事に気を散らしている彼らからは、奪い去られてしまうのだ。(P50)
しかし、「過去」は確かなものであり、かき乱されることも奪い去られることもない。「過去」はなんの心配もなく、永遠に所有することができるのだと。
真の閑暇は、過去の哲人に学び、英知を求める生活の中にある。
すべての人間の中で、閑暇な人といえるのは、英知を手にするために時間を使う人だけだ。そのような人だけが、生きているといえる。というのも、そのような人は、自分の人生を上手に管理できるだけでなく、自分の時代に、すべての時代を付け加えることができるからだ。彼が生まれる以前に過ぎ去っていったあらゆる年月が彼の年月に付け加えられるのである。(P66)
われわれがひどい恩知らずでないというなら、こう考えるべきだ。人々に尊敬される諸学派を作り上げた高名な創設者たちはわれわれのために生まれてくれた。そして、われわれのために行き方のお手本を用意してくれたのだと。(P66)
つまり、セネカがいう「閑暇な生活」とは、ごく短く儚い時間のうつろいから離れ、過去という時間に向き合うことと言っているわけです。
過去を訪れ優れた英知と交わり、彼らから多くのことを学ぶこと。
それこそが、浪費しない時間の使い方であり、
人生を長くする唯一の方法ということになるのです。