宮沢賢治が人生の意味に気付いたのは星が青白く光る『銀河鉄道の夜』だった
中学校の国語の教科書にも採用されている『銀河鉄道の夜』ですが、
非現実的な世界を描いたファンタジーものなので、
「意味不明」「理解不能」って挫折した人も少なくないのではないか思います。
「カムパネルラとジョバンニって名前は聞いたことあるかもーー」
とか・・・・良くて────
「ストーリーは知ってるーー」
せいぜいそんなところではないでしょうか。
<中一の読み物><童話><ファンタジー><よく分からん>・・・・
その後の人生で「もう一度読もう」って思う人がいないのはほぼ間違いないことでしょう。
しかし、それはとても残念なことです。
なぜなら、この作品には、1度読んだだけでは拾い切ることができない、あまりにも多くのモチーフが、あらゆるところに散りばめられているからです。
フツーの人は、何回か読み返すことで、はじめて随所に点在するモチーフに気が付いて、この作品のすごさ・面白さを知ることができるのではないかと思います。
さて、『銀河鉄道の夜』の主題は、「さいわいとは何か」です。
これは「人としてどうあるべきか」とか「人生とは何か」というようなこと。
つまり宮沢賢治は、そういうことで悩んでたということです。
作品の中に仕掛けられたモチーフを回収していくことで、 宮沢賢治の悩みの核心部分を読み解くことができる───
それが『銀河鉄道の夜』なのです。
※ちなみに、僕は学問として文学を勉強したわけではないし、宮沢賢治を研究したわけでもありません。この作品を読んで感じたこと、自分なりの解釈を趣味感覚で記しているだけにすぎませんので、あしからず。
では。
実は、この物語を形作っている、ゆるぎない絶対的なひとつの思想があります。
それはこの物語の初っ端から最後の最後まで、全編にわたってこの物語を支配しているもの。この物語のすべてといってもいいものです。
それは、この物語の構成を考えて見れば明らかになります。
〘賢治にとっての母親の存在〙
まず、物語は、学校の先生による「天の川」の説明の場面から始まります。ジョバンニは授業が終わるとアルバイトに行き、稼いだお金で、病気の母親のためにパンと角砂糖を買って帰ります。そして母親に牛乳に砂糖を入れた飲み物を作ろうとしますが、牛乳がなかったので、牛乳屋まで牛乳をもらいに行きます。その途中で、銀河鉄道に遭遇し銀河を旅することになります。銀河から戻ったジョバンニは、牛乳を持って母親の待つ家に走って帰っていきます。
まず、天の川はなぜ英語で「milky way」と言うのかというと、
ギリシャ神話で、全能の神ゼウスの妻へラの「母乳の流れた跡」とさ
れているからです。さらに、銀河を意味する「galaxy」も、ギリシャ語で「ミルキー、ミルク状の」を意味する「galaxias」が語源となっているそうです。(参考:天の川 ミルキーウェイ 銀河系の神話 春夏秋冬)
つまり、ジョバンニは────
母親と一緒にいるときは母親の看病をし、
母親と一緒にいないときは、
学校では、母乳が由来となっているものの授業を受けて、
バイトでは、母親のために頑張って働いて、
外出するのは、母親の牛乳(ミルク)をもらいに行くときで、
銀河鉄道では、母乳が語源となっている銀河へ行くわけです。
ジョバンニの意識のなかには、常に「母親」がいるわけです。
〔プリオシン海岸〕
「海」です。
生物が誕生した「母なる海」。漢字にも「母」が入っている「海」。
そして、その海岸で行われていたことが、牛の先祖の発掘。
ミルクを出す「牛」は、「母親」を表わすものであり、
それを「壊さないように」「乱暴にするな」「丁寧に」と採掘する様子は、ジョバンニの母親への気持ちに他なりません。
「白い柔らかな岩」という描写も、母親の身体を想起させます。
このように、冒頭一文目の「乳の流れたあと~」から、母乳を語源とする銀河に行き、お母さんに牛乳を持って一目散に走っていく最後の場面に至るまで、『銀河鉄道の夜』は、宮沢賢治の圧倒的なマザコンで埋め尽くされた作品なのです。
物語の中でその役割を担っている主人公ジョバンニは、宮沢賢治自身と考えることができるでしょう。
〘賢治にとっての父親の存在〙
では、父親に対してはどうか。
ジョバンニは父親のことで悪口を言われいじめられています。遠洋漁業に出ているはずですが、「密猟をして捕まって監獄に入っているんだ」と。
ジョバンニは、父親がそんな悪いことをするはずはないと、父親を信じて、漁から帰ってくるのをずっと待っているわけです。
そんなジョバンニに対して母親は言います。
「お父さんは漁へ出ていないかもしれない。」
宮沢賢治にとって、自分にとって父親は「良い面」と「悪い面」の2つの側面をもった存在で、
自分が信じるいい父親であれば帰ってくるはずなのに、帰ってこない。
ということは・・・・
賢治の中では、父親の「悪い面」の方が勝ってしまっているということ。
受け入れたくても受け入れられない、
好きになりたいくても好きになれない、
そんな、父親に対する賢治の葛藤を読み取ることができます。
実際、賢治は、父親の職業(古着屋)で差別を受けたこともあり、その職業を嫌っていたようです。
〘実際の自分と理想の自分〙
一般的に主人公ジョバンニは、おとなしくて母親想いで優しい良い子というイメージでとらえられます。
しかし、賢治は、自分の投影であるジョバンニを本当に良い子として描いているのでしょうか。
答えは否。むしろその逆と言えるでしょう。
ジョバンニは、表面的なおとなしいので表立って現れることはありませんが、実は、内面的にはかなり陰湿で性格の悪いキャラクターとして描かれています。
・「ザネリ」には面と向かって言えないことを、陰で言ったり、
・「鳥捕り」をばかにしたり、邪魔だと思ったり、
・「女の子」を生意気だと思ったて無視したり、
・「カムパネルラ」が、その「女の子」と仲良く談していることに腹を立て、カムパネルラに冷たい態度を取ったり。
どうして僕はこんなにもかなしいのだろう。僕はもっとこころもちをきれいに大きくもたなければいけない。
自分の父親を受け入れたくても、受け入れることができない自分の心の狭さ。
────人間としての器の小ささ。
宮沢賢治の悩みの根源はここにあったと考えられます。
そんな自分が救われるためにはどうすればいいのか?
その答えを提示するのが、ジョバンニの対極に位置するカムパネルラです。
・クラスの全員から慕われ、常に中心的・リーダー的存在。
・いじめっ子のザネリとも仲良くやっている。
・大人からの信頼も厚い。
カムパネルラはジョバンニ(賢治)の負の部分を正に変えた存在。
つまり、それはジョバンニ(賢治)が理想とする「なりたい自分」。
そんなカムパネルラは身をもって、ジョバンニに「ほんとうのさいわいとは何か」に対する答えを示します。
己の命と引き換えに、(ジョバンニにとって)憎いザネリを助けるということ。
さいわいとは、他者を許すということだった。
なお、カムパネルラがいなくなったということは、もう、ジョバンニにとってカムパネルラが理想とする人物ではなくなったということ。ジョバンニが自分の理想とする人物になれたということです。
そして、カムパネルラのお父さんがジョバンニに「あした放課後みなさんとうちへ遊びに来てくださいね。」と声をかけたのは、ジョバンニがみんなと仲良くなれるということを示唆し、
お父さんが帰ってくることを伝えたのは、ジョバンニが父親を許し、受け入れられるようになったということを表しているのです。