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神に人を信じることを許されなかった男が自らに下した最後の審判 それは『人間失格』

 

人間失格

人間失格

 

 

太宰治の自伝的小説であり、また太宰治は本作を書き上げた1か月後に玉川上水で入水自殺したことから、遺書であるとも言われている『人間失格』。

 

新潮文庫の発行部数が夏目漱石の『こころ』に次いで2番目に多いとのことですが、あまりにも暗くて重たい内容なので、読むに堪えないという人も少なくないのではないでしょうか。

 

 

内容的には、

 

小さい時から自分だけが他の人と全く異なっているような不安や恐怖を抱いた結果、人間不信に陥った大庭葉蔵が、心中未遂、自殺未遂などを繰り返し、最終的には薬物中毒で廃人なっていく経緯を描いたもので、

 

 

不安、恐怖、苦痛、戦慄、復讐、残酷、嘲笑、絶望、懊悩、憂鬱、不信、孤独、震撼、邪慳、嘔吐、陰鬱、陰惨、白痴、狂人、敗者、軽薄、屈辱、侮蔑、蔑視、凄惨、軽蔑、嫌悪、地獄・・・・

 

ネガティブワードのオンパレード。

 

 

だけども面白い。 

 

 

何度も自殺未遂を繰り返し、薬物中毒になった自己破滅型作家の遺書とも言われている作品にもかかわらず、実際に作品を読んでみると、そこまで暗くて重たい印象は受けないんですよね。

 

 

きっと、太宰治の文章には、

 

  1. 圧倒的な文章表現力の高さ、
  2. 作中、大庭葉蔵にも演じさせていた「道化」、と
  3. 世間に対する諦めの境地

 

があるからだと思うわけですが、2.と3.がこの作品を魅力的なものにしているとすれば、それは皮肉としか言いようがありません。

 

 

なぜならば、「道化」と「諦め」は、太宰治が幼少の頃から苦しんできた、人間に対する怖れと不信感から生まれたものに他ならないからです。

 

 ・・・・・・(人間というものについて)考えれば考えるほど、自分には、わからなくなり、自分ひとり全く変わっているような、不安と恐怖に襲われるばかりなのです。自分は隣人と、ほとんど会話が出来ません。何を、どう言ったらいいのか、わからないのです。

 

 

そこで考え出したのは、道化でした。

 

 

自分は子供の頃から、自分の家族の者たちに対してさえ、彼等がどんなに苦しく、またどんな事を考えて生きているのか、まるでちっとも見当がつかず、ただおそろしく、その気まずさに堪える事が出来ず、既に道化の上手になっていました。つまり、自分は、いつのまにやら、一言も本当の事を言わない子になっていたのです。

 

 

自分を大庭葉蔵という他者に置き換えることで、自分は第三者的な道化者として、自分を客観的に描いた太宰治──────

 

 

人間に訴える、自分は、その手段には少しも期待できなかったのです。父に訴えても、母に訴えても、お巡りに訴えても、政府に訴えても、結局は世渡りに強い人の、世間に通りのいい言いぶんに言いまくられるだけの事では無いかしら。 

 

 

必ず片手落のあるのが、わかり切っている、所詮、人間に訴えるのは無駄である、自分はやはり、本当の事は何も言わず、忍んで、そうしてお道化をつづけているより他、無い気持なのでした。

 

 

 

大庭葉蔵こと太宰治の人格形成に大きな影響を与えたものは何だったのでしょうか?

 

 

 

人間失格』は、母親に関する記述がほとんどないため、母親の性格や人となり、葉蔵が母親に対してどう思っていたのかを窺い知ることはできません。

 

それは太宰治が「母は病弱だったため、生まれてすぐ乳母に育てられた。」(Wikipedia)ことによるものだと思われますが、

 

 

一方、父親については強烈な記述がなされています。

 

 

何という失敗、自分は父を怒らせた、父の復讐は、きっと、おそるべきものに違いない、いまのうちに何とかして取りかえしのつかぬものか、とその夜、蒲団の中でがたがた震えながら・・・・・・

 

父が死んだ事を知ってから、自分はいよいよ腑抜けたようになりました。父が、もういない、自分の胸中から一刻も離れなかったあの懐しくおそろしい存在が、もういない、自分の苦悩の壺がからっぽになったような気がしました。自分の苦悩の壺がやけに重かったのも、あの父のせいだったのではなかろうかとさえ思われました。まるで、張り合いが抜けました。苦悩する能力さえ失いました。

 

 

この怯え方は尋常ではありません。

 

 

人間失格』を読むと、太宰治の自己破滅型の人格は、幼少期に父親から虐待によって、形成されてたのではないかと思わざるをえません。

 

 

母親が近くにいればこのようなことにはならなかったのかもしれませんし、 

 

葉蔵が、年上の女性や子供がいる女性と関係を重ねたのは、彼女たちに「母性」を求めたからなのではないかと思うわけです。

 

 

そんな、人を信じることができず、世間を怖れ、破滅的な女性関係にはまりこみ、絶望の淵に立たされていた葉蔵の前に現れたのは、

 

 

人を疑うことを知らない「信頼の天才」・ヨシ子。

 

 

 

ヨシ子との生活に歓楽を得られたかに思えた葉蔵だったが────────

 

 

 

 

ヨシ子の無垢の信頼心は、(中略)一夜で、黄色い汚水に変わってしまいました。

 

 

 

 

ひとを疑う事を知らなかったゆえの惨劇

 

 

 

神に問う。信頼は罪なりや。 

 

嗚呼、信頼は罪なりや?

 

 

太宰治が最後に書いた太宰文学の金字塔『人間失格

 

 

 

・・・・・・だめね。人間も、ああなっては、もう駄目ね

 

あのひとのお父さんが悪いのですよ

 

 

私たちの知っている葉ちゃんは、とても素直で、よく気がきいて、あれでお酒さえ飲まなければ、いいえ、飲んでも、

 

 

・・・・・・神様みたいないい子でした